帯笑園の歴史



 帯笑園は、東海道原宿の素封家であった植松家の私園でした。その名称は、六代当主與右衛門 李英(蘭渓)の請いにより、江戸の漢学者海保青陵が命名しました。戦国時代末ころに作庭されたとも伝えられますが、江戸時代後期の蘭渓の代にほぼ庭園の全体の姿が出来上がり、その後も代々の当主が花卉銘木の収集や園内の整備に努めてきました。
 幕末から明治期には街道一の名園と讃えられ、東海道を往来する大名、公家、文人などが訪れ、植松家で収集した京都円山派などの書画とともに鑑賞されました。
 江戸参府の際に訪れたオランダ商館付ドイツ人医師で博物学者のシーボルトは、その紀行文の中で「私がこれまでにこの国で見たもののうちでいちばん美しく、鑑賞植物も非常に豊富である。」と絶賛しています。
 東海道に北面して建てられていた居宅の奥が、土蔵や離れ、育成畑などに囲まれた庭園となっていました。庭園は、延べ段の通る狭い庭を境に前庭と奥庭に分かれており、奥庭は築山や枯山水の滝組などのある伝統的な庭園を主体とし、牡丹や芍薬の花壇、藤棚が設けられていました。前庭には温室が付属し、名のある松や蘇鉄などの盆栽、桜草、松葉蘭や石斛などの当時流行した珍しい品種や舶来の花卉類の鉢植えが並べられていました。
 その後、時代の変遷とともに、敷地は半分ほどに縮小し、貴重な植物も多くは失われてしまいました。沼津市では、この庭園が東海道原宿に芽生えた花卉園芸文化の盛隆を伝えるものとして、顕彰し、その継承と活用を図るため、景観を復元する整備を進めています。

(入口の案内板から)