帯笑園について


 東海道原宿の帯笑園は、16世紀末にこの地に居を構えた豪農植松家の庭園です。植松家は、原に入植以来、開墾・植林に励むとともに、花卉類の収集にも努め、やがて「花長者」と呼ばれるようになりました。

 庭園には、芍薬、万年青、松葉蘭、桜草などのほか、各地の珍しい植物が集められ、外国の草花も取り寄せられるなどして、東海道随一の名園と謳われました。江戸時代には、公家・大名をはじめ文人や庶民など様々な人々が立ち寄り、花卉類及び文芸・文化の交換の場となっていました。

 江戸後期には頼山陽、画家岸駒が、近代以降には皇室や明治政府の閣僚、元勲などが来園しています。幕末にオランダ商館長とともに訪れた医師で博物学者のフィリップ・F・フォン・シーボルトは、著書『江戸参府紀行』の中で帯笑園の優れた景観と豊富な植物を讃えています。

 帯笑園は、はじめ「菊花園」「植松叟花園」と呼ばれていましたが、寛政3年(1791)に儒学者の海保青陵が「帯笑園」と名付けたとされます。

 現在も庭園には、皆川淇園撰・巻菱湖筆になる庭園の来歴を刻んだ石碑、「望嶽亭」跡の大きな沓脱石、玉石敷の延段、蓮などの栽培のための陶製水盤、石灯ろう、賀茂季鷹歌碑などが残り、園芸に関する豊富な資料も残されていることから、近世後期から近代にかけての花卉類の収集・展示の場となった庭園の事例として、造園文化に果たした意義が深いことから、平成24年9月19日国の登録記念物(名勝地関係)として文化財登録がなされました。現在は、沼津市が敷地を取得し、帯笑園の保存と顕彰につとめています。


国の登録記念物に登録




「帯笑園」の木額と門柱に柱聯が掛かる入口の門(明治期)


 帯笑園は、沼津市原の旧東海道に面した、原の素封家植松家が江戸時代から昭和初期まで代々伝えた庭園です。庭園は盆栽や鉢物、花壇に植えられた園芸植物のコレクションを主体とする庭として他に類を見ないものであり、植松家が所蔵する庭園の絵図及び銅版画にその姿を読み取ることができます。
 絵図によると、母屋の背後の細長い敷地に、盆栽や鉢物の陳列棚、牡丹や芍薬、撫子、舶来草花等の花壇を配置し、楼、亭、榻といった眺望や植物を楽しむ施設、植物の育成や冬期の保管のための植木室(温室)が設けられていました。帯笑園の命名は、寛政3年(1791)海保青陵によるもので、高島秋帆の揮毫になる「帯笑園」門額が残されています。
 帯笑園の植物コレクションは当時広く知られており、大名、公家から武士、農民、町人におよぶ東海道を往来する多数の人々が見物に訪れました。その中の一人で文政9年(1826)に訪れた医師フィリップ・F・フォン・シーボルトは、著書『江戸参府紀行』の中で、「今迄日本にて見たるものの中にて、最も美しくまた鑑賞植物に最も豊かなるものなり」と讃えています。
 植松家には、庭園の絵図のほか、訪問者の名前を記した芳名帳(吟海草帖)、花壇に植えられた花の品種名や栽培の記録、園記、柱聯、帯笑園を詠んだ詩歌など庭の姿や訪問者たちとの交流の様子を伝える資料が多数残され、当時の庭の有り様を伝えています。明治23年に制作された銅版画は屋敷の鳥瞰図で、江戸時代後期に描かれた絵図とほぼ同じ姿を示すとともに、庭を見物する人の姿まで細密に描いています。
 現存する庭園は、庭園部分の敷地、園のほぼ中央に設けられていた望嶽亭跡の沓脱ぎ石、望嶽亭から奥に延びる石敷きの園路(延べ段)、園路に沿って置かれていた蓮の鉢と蓮、石灯籠、大正天皇下賜の大王松、年を経た藤、高野槇、皆川淇園撰・巻菱湖書になる園記と岸駒の虎の絵が刻まれた石碑などを残しています。
 帯笑園は、江戸時代の地方の豪農が設けた花壇を主体とする庭園として、他に類を見ない庭であるといえます。鉢物と草花を主な構成要素とする庭の性格上、現存する構成物の数が限られるにもかかわらず、それら構成物により往時の面影をとどめています。また、植松家に残る園の記録は、その数、質ともにこの種の記録としては出色であり、それらの記録と相まって、帯笑園は江戸時代後期に盛んであった園芸の庭園における展開の様を、利用のあり方を含めて示す貴重な庭園です。
 こうしたことから、平成24年6月に開かれた国の文化審議会は、帯笑園を国の登録文化財とするよう文部科学大臣に答申し、同年9月19日付け官報で、文化財保護法第132条第1項の規定に基づき帯笑園が登録記念物(名勝地関係)として国の文化財登録原簿に登録されたことが公示(平成24年9月19日付け文部科学省告示第155号)されました。



帯笑園之図





 この絵図は、植松家に伝えられた江戸時代後期頃の帯笑園の様子を詳しく描いたものです。(図の左側が北方向で、東海道の街道沿い)
 帯笑園は、東海道の南に沿った植松家の本宅の奥に位置しており、建物内の土間を通り抜けると園の入り口に当たる「園関(えんせき)」と呼ばれる門がありました。門には「帯笑園」の木額が掲げられ、門柱には柱聯(ちゅうれん)が掛けられていました。
 庭園の中央は、「靄春堂」と呼ばれる八畳間を持つ離れと土蔵に挟まれて狭くなっており、「萬花谷」と呼ばれ、中央に延べ段が通っていました。ここには、百合と撫子(なでしこ)の花壇や楓(かえで)の植込みを背景に、蓮と舶来物の鉢植えが並べられていました。この狭い庭を境に園内は奥庭と前庭に大きく分かれていました。奥庭は、萬花谷の先にあった「萬花谷門」の南に広がっており、門をくぐると直ぐに「浴馨榻(よくけいとう)」と呼ばれる屋根付きの縁台が設けられ、そこから庭を鑑賞するようになっていました。奥庭には藤棚(ふじだな)、牡丹(ぼたん)や芍薬の花壇があり、さらにその奥には、築山(つきやま)や枯山水(かれさんすい)の滝組などを主体とした伝統的な庭園となっていました。北側の前庭の南端には「望嶽亭(ぼうがくてい)」と呼ばれる茶室が設けられ、そこからは前庭全体が見渡せ、本宅の建物越しには富士山を望むことが出来ました。この前庭には「縫霞龍」や「臥龍」といった銘のある松や、「峨眉山」や「天台山」と呼ばれる蘇鉄(そてつ)などの盆栽、桜草などの鉢植えが並べられていました。
 桜草は特に有名で、数百もの種類が収集されていました。また、松葉蘭(まつばらん)や石斛(せっこく)、斑入(ふいり)植物、万年青(おもと)といった趣味性の強い植物や、数多くの珍しい舶来植物が陳列されていました。
 土蔵の脇には「常春房(じょうしゅんぼう)」や「蔵春洞(ぞうしゅんどう)」といった温室が付属しており、また「霈雨洞(はいうどう)」や「灌花露(かんかろ)」と呼ばれた井戸もありました。
(園内に設けられた説明板から)